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17/12/09 満洲国の首都『大新京建設画帖』と写真化学研究所の『P.C.L.営業案内』

 ■12月8日。いまから76年前の1941年、日本が真珠湾攻撃を仕掛けたのと同じ日に、私は神保町と五反田の市場をはしご。切った張ったの入札会とは云え呑気なものであります。クリスマスを目前に、エルサレムでは不穏な空気が広がるのを見、米朝軋轢は危険水域に入ったとの見方に触れるにつけ、このどこか安閑として見える仕事は (実際にはドタバタと忙殺の日々が続いているわけですが、こんな仕事で生計が立っているという点で) 所謂「平時」だからこそ続けられるものであり、思えば平和というのは実に有難いことであります。
いまから85年前の1932年、中国の長春では、実際には日本の植民地である満洲国の建国式典と、国際社会からすれば当初から傀儡政権であることが明らかな、溥儀の満洲国執政就任式が執り行われました。その翌日には満洲国の国都を長春に定め、新国家の首都に相応しい名称として「新京」と新たに命名、新京特別市が誕生したと云います。今週の1点目には、この長春のみに焦点をあてた書籍を選びました。
『第一次計画完成記念 大新京建設画帖』は1937(昭和12)年、大新京建設画報編纂室が発行したものがそれ。大判、クロス装・三方金。新京特別市長による中国語の序文がある以外はすべて写真版の片面刷。表紙にはロシア構成主義を思わせる図版が1点あしらわれ、本文ページの多くはモノクロ写真とアール・デコ風の飾りとで2色使い多数……といった調子のなかなか贅沢な本です。
写真は95ページ。関東軍司令部から始まり、宮内府、国都建設局、国務院新庁舎、諸官庁、中銀倶楽部と総裁官邸、大満鉄、満洲国電信電話株式会社、南嶺浄水池、開けゆく市街、大同広場、整然たる社宅、住宅地帯、三大カフエーの合成、新京の映画、舗装工事、満鉄付属地、交通機関、航空の整備 …… 等々、どれを画像にとったものか迷うほど興味深い項目とその写真が並んでいます。
旧市街の外側、“曠野”とも評された空白の土地に都市を出現させてしまった新京については施設や街区の様子(=都市の景観と機能およびインフラとその建設の過程)を、ここまで広く丁寧に拾った書籍は他にあまりないのではないかと思います。
ちなみに、落札した後、画像検索でも確認。掲載されている写真と一致するものが極めて少ないことも分かりました。
1945年、ソ連軍、新京を占領す - たったの8年で消え去る無運命だった「満洲国の首都・新京」の姿をいまに伝える1冊です。

 「何だこれ。ゴルフ場の営業案内か?」と市場で古本屋さんたちみんなが思った『P.C.L.営業案内』。云うまでもなく私も「みんな」のうちの一人だったわけですが、開いてビックリ映画関係でした。P.C.L.」はPhoto Chemical Laboratoryの略で、「株式会社写真化学研究所」のこと。つまりこちら、昭和4年に設立され、後に東宝に吸収されることになる映画会社の営業ツールだったわけです。刊期の記載がありませんが、1932~1933(昭和7~8)年頃に発行されたものと見られます。→町名変更に関するご指摘をいただき、「1936~1937年頃」に訂正いたします。末尾の「追記」をご参照下さい。
営業科目としはて映画製作(トーキー、サイレント、天然色16ミリ)、撮影・録音・現像・焼付・編修引受、出張映画の三本柱で、いわば当時の先端メディア企業。省庁や軍、国策関係の作品を多く手掛けており、当誌所収の「作品目録」でとくに目立つのが、「満鉄」をクライアントとした22本。但し本数でトップとなっているのは朝日新聞の25本です。民間企業では明治製菓、住友電線、ヤマサ醤油、松下乾電池などの名前が見える他、明らかに漫画映画だとわかる4作を含む10点の自社作品のタイトルも。この「作品目録」には各作品の「尺」も記載されています。
A4二つ折り16Pで、内9Pは製作映画のコマから落とした写真で構成。満鉄映画「日満連絡貨物」逓信省映画「空の文化」などのフィルムの一部からとられています。
状態は極美。綴じ穴があるのが惜しまれますが、幸い文字の欠けはありません。

Wikiはじめ、検索した範囲で出てくる情報では同研究所がもっていた撮影所を「北多摩郡砧村」や「砧」としているのに対して当誌の撮影所のクレジットは「世田谷区喜多見」。さて、これは単に市町村名の変更などによるもので同じところを示しているのか? はたまたどちらかが間違っているのか? そこまで調べるべきであると思いはするものの眠気には勝てず。あとはお求め下さった方にお任せするとして、古本屋はここらで退場することにいたします。

追記) P.C.L.砧撮影所の住所は当初「北多摩郡砧村大字喜多見」であり1936(昭和11)年10月に砧村が東京市に編入されて、大字喜多見が世田谷区喜多見町となった、とのご教示をいただきました。また、翌1937(昭和12)年9月には同社とその子会社の「ピー・シー・エル映画製作所」、トーキー専門の映画スタジオ「ゼーオー・スタヂオ」、阪急資本の映画配給会社「東宝映画配給」の4社が合併し、「東宝映画」を設立したとあることから、当パンフレットは1936年10月から翌年9月までというごくごく短い期間にのみ利用されていたものと見られます。

 

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