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22/05/21 1960年代はじめ 日米の映画界・映像界をめぐる資料

■先ずは来週のスケジュールのお知らせです。5月24日(火)は洋書会大市のため休業させていただきます。来週店の営業は26日(木)と28日(土)のそれぞれ12時より19時までとなります。ご不便をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

今週月曜日は雑事に追われて更新できず。久々の更新となりました。
映画の都・ハリウッドを代表する映画館「シネラマ・ドーム」=「シネラマ・シアター」の開場と、映画「おかしなおかしなおかしな世界」のワールドプレミアとを兼ねたオープニング記念イヴェントの記録写真。
1963年に開催されたこのイヴェントに、日本から招かれた映画評論家・荻昌弘かその関係者の旧蔵品とみられます。
「シネラマ」とは、1952年アメリカ発祥のワイド・スクリーン映画のひとつで、映写機3台を利用する方式。当初は技術的な問題から難点が目立ったようですが1963年までには70mmフィルムの登場などにより改善がみられたといいます。
入荷した写真は全て6切サイズで、①ドーム型が特徴的な「シネラマ・シアター」のオープニングー・イヴェント当日の外観写真2点、②テープカット2点、③オープニングパーティ11点(監督挨拶、俳優・女優など含む)、④荻昌弘によるインタビューのスチール4点、⑤「おかしなおかしなおかしな世界」の撮影現場スチール写真7点
この内の⑤には、荻昌弘の自筆と思われる映画短評1枚が付いている他、専用のレターヘッドを使った映画のプレスリリース2枚日本のユナイト社から荻に宛てたメッセージ1枚、封筒2点がついています。
シネラマ専用上映館として開業した「シネラマ・シアター」=「シネラマ・ドーム」はシネラマ方式が定着しなかったものの、映画の都・ハリウッドの聖地のひとつに数えられた名映画館になりました。コロナのあおりで2021年にはいったんは閉場が伝えられたものの、今年になって一転、営業再開の見通しとのニュースが伝わっています。
経済至上主義の一方で、こういう時にはどこからかリカヴァーする力が働くアメリカという国を、いつも不思議に、そして少し羨ましく思います。
 

■「シネラマ・シアター」開場の翌年・1964年の日本では、映像とその周辺で表現を模索する人たちが離合集散の歴史を重ねていたようで、その過程で生まれた冊子が今週の新着品の2つ目。
「1950年代後半から1960年代の初頭にかけて、当時のドキュメンタリー、教育映画の業界に小さくない影響力を持」っていた(Wikipedia)日本記録映画作家協会が分裂、このうちの松本俊夫をはじめとする改革派がつくったのが「映像芸術の会」(神戸映画資料館 筒井武文監督ロング・インタビューより)。
画像中右端の『映像芸術の会 研究資料 第1号』は1964年7月の発行で、黒木和雄、土本典昭などの監督した作品のシナリオと、松本俊夫と滝沢林三の批評を掲載。『松本俊夫著作集成1』所収の「人間性の回復-『去年マリエンバートで』を見て」は当誌が初出。
『記録と映像』を会報とする「記録と映像の会」は「映像芸術の会」のもとで、上映活動を企画する委員会として設けられたもので、今回入荷した『記録と映像 』の1号から3号まで(1964年5月~7月発行)巻頭には松本俊夫と野田真吉による「連載<対談>戦後ドキュメンタリー変遷史」が掲載されています。
『記録と映像』では、この他、池田龍雄、真鍋博、久里洋二というあたりが参加しているのも面白いところ。
1964年のこうした動きとその前後については、すでに下記の該博な研究があり、ご興味をお持ちの方は是非ご参照下さい。
阪本裕文「前衛記録映画論の戦後的意味-1970 年までの松本俊夫の諸活動をもとに」

今週はこの他、児童画がまとまって到着、明治中期以降大正頃までの古写真1箱が入荷。来週にはスクラップ帖だけをまとめた棚をつくりたいなつくれるかなつくれるといいな。といった具合でご来店をお待ちいたしております。


 

 

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