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10/07/02 “たたかひ”がもたらしたもの - 大阪商船のPR誌『海』と福田豊四郎書簡類


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大阪商船のPR誌『海』はB5サイズで各冊25~50P内外、月刊発行。画像のうち2冊=「海」のタイトルが見える表紙は昭和6~7年の発行で、観光情報多数。また、「うすりい丸」の紹介も。左端は満鉄出稿による「あじあ号」の広告。右から2点目、昭和17年発行分になると戦時色を色濃く反映、表4の広告には「進め 貫け 米英に 最後のとどめ刺す日まで」というコピーが踊る。

■本日、7月2日(金)は「明治古典会 七夕古書大入札会」のために通常の市場はお休み。このため今週の新着品は先週ご紹介のできなかったものからピップアップいたしました。最初は大阪商船の月刊PR誌『海』昭和6 ( 1931 ) 年から、太平洋戦争突入後の昭和17 ( 1942 ) 年に亘る間に発行された各号の内20冊の入荷です。大阪商船は明治17 ( 1884 ) 年国内でもいち早く設立された海運企業。瀬戸内海路線からスタート、明治半ば頃からは日本と朝鮮半島や中国とを結ぶ海外路線に進出し、戦前日本海運の西の雄として名を馳せました。早くから日本と旧植民地間の路線を押さえ、後には南方路線、南米路線など、日本の国策に沿うかのように路線を拡大しています。PR誌は客船の乗客を想定してか、主に“旅”をテーマとした記事とグラビアを中心に構成されていますが、こうした運航路線を反映した結果、満州や北支・南支に関する記事が多く、また、沖縄の観光、バタビアのグラビア写真、ブラジルの移民情報など、いま見ると戦前・戦中の日本の国策関係資料としての意味を持ち得ているのも面白いところでしょう。画像左端のように、満鉄アジア号の広告なんていうものも掲載されています ( これなどペラ一枚で出てきた方が高くなるのでは ) 。執筆陣に松田毅一、山口誓子、北村兼子、高橋廣江、和辻春樹など。広告も「商業美術家連盟」創立メンバー・柴田可寿馬による大阪大丸(カラー広告)や今竹七郎在席当時の大阪高島屋、満鉄案内所など見るべきもの多し。しかしこうした宣伝努力も空しく、太平洋戦争開戦後の昭和16 ( 1941 ) 年に「戦時海運管理要綱」が閣議決定されると客船に至るまで徴用され、海運会社所有の客船も、本格的に戦争に組み込まれ、そのほとんどが海の藻屑と消えました。例えばいま手元にある昭和7年発行『海 No.30』巻頭で満洲国設立と竣工が重なったことが寿がれ、仕様が絵入りで紹介された「うすりい丸」もまた、昭和19年、輸送任務中に台湾沖で空爆撃沈。陸軍省発明の言葉に、「たたかひは創造の父、文化の母」というのがあるそうですが、こんな言葉が通用したこと自体、ちょっと信じがたい思いがします。


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福田豊四郎が藤本韶三宛に送った書簡・ハガキの内、戦前に書かれた分から4点。画像左の書簡に見られるスケッチは福田の疎開先の村の様子をスケッチしたもの。右端のハガキは従軍画家として中国に赴いた際に広東のホテルから藤本宛に出されたもので、反対側は広東の風景絵葉書となっている。

次の新着品は、そうした戦争前後に画家が残した記録の一端です。戦前の美術雑誌『アトリエ』や『画論』の編集に携わり、戦後は三彩社を起こした藤本韶三に宛てて、全て日本画家の福田豊四郎が送った書簡・ハガキが13通。この内、戦中分が8通、戦後分が5通となっています。福田豊四郎は昭和13年に従軍画家として中国に赴いて以来、戦争画を手掛け、多くの戦争美術展に作品を出展しました。ハガキの1枚は戦中、広東のホテル宿泊中に投函された絵ハガキで、「これから目的地に向ふ。当方川端先生、中山、猪熊、吉岡組、元気です。」とあり、川端龍子、中山巍、猪熊弦一郎、吉岡堅二とともに戦争記録画製作のために昭和17年の陸軍徴用令に応じた際のものでしょう。長文の多い戦中の書簡では、戦時体制下の芸術文化や画壇についての話題が疎開先の生活描写のなかにまじり合い、内、書簡1通には、疎開先となった故郷・秋田の村の様子がスケッチされています。これらの書簡には、自然に囲まれた生活の伸びやかさや、食も安定している様子が綴られる一方、「日々の単調さと話相手の無いわびしさ、これは全く日を経るにつれやり切れません。」といった記述も見られます。終戦直前の昭和20年7月15日消印のハガキは藤本が疎開していた下伊那郡宛てに出されており、「新宿の方へ預けた荷物は全部消滅しました。」「陸美(=陸軍美術協会)も駄目らしく、馬来絵巻の安否心配しています。」といった報告とともに、「文化は悪はれ(ママ)、友情のサークルは消えて、全く淋しい感じがします。これが戦争と云ふのでせう。」とも。「急転の戦局後、馬鹿らしくなつたり、腹が立つたり、又、ふと安心したり、当面のことに周章したり、新聞をみて焦らついたり、急ぎ絵を描いたり」と始まる4枚の書簡は敗戦直後に書かれたもので、進駐軍を礼賛する“都会人”への軽蔑、復員兵がその進駐軍より堕落していることへの嘆きなどが綴られ、陸美関係者からの情報で「皆平和産業に切りかへたらしく、一時はそれでも相当慌てたらしい様子」と画壇関係者の近況をひとくくりにまとめたのに続けて「でも自分始めあの当時の感激的な興奮は、人生ざらにあるものでなく」と書いているあたりは、“聖戦美術”が脚光を浴びた時代に直接関わった画家としての、非常に素直な感想と受けとめてよいのかも知れません。ただ今ざっと見たところではこうした内容が目につきますが、戦時下の画壇について、疎開生活について、そして、戦後の文化人の意識について、さまざまな読み込み方ができるのではないかと思います。
■冒頭でも述べましたが、今週7月2日(金)から4日(日)にかけては「明治古典会 七夕古書大入札会」というのが開催されておりまして、通常の市場はお休み。「七夕」というのはこちらでご案内しておりますように、一般のお客様からのご注文を受け、業者が代理で入札するのを主眼に開催される市場で、小店が仕入れのために使えるような市場ではありません。千に一つの僥倖で落札、なんていうものがありましたら、来週このページでご紹介-できれはいいのですが…。

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