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10/08/14 残暑お見舞い申し上げます。今週は戦争に翻弄された文化と人の痕跡2点-『崔承喜パンフレット 第三号』『伊東洋裁研究所規定』 この機会におまけもひとつ。


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『崔承喜パンフレット 第三号』より左から / 谷峰三デザインの表紙 / 堀野正雄撮影による「リリック・オペラ」のスチール / 見開きは朝鮮古曲による「エヘヤ・ノヤラ」の振付より /右下の封筒は崔承喜舞踊研究所専用封筒で久米正雄宛てのもの。別途入荷したものですが、パンフレットのおまけに。

■残暑お見舞い申し上げます。店の営業をお休みしているだけで仕事はまだまだ終わらない日月堂、今週も金曜深夜定例の新着品のご案内です。『SAISHOKI PANPHLET No.3』。欧文ではぴんとこない方もいらっしゃるかも知れませんが、奥付の表記『崔承喜パンフレット 第三号』と書けばお分かりの通り、戦前から戦中にかけて国内外で活躍した舞踊家・崔承喜の写真と活動と批評等を集めた総合的な機関誌=グラフ雑誌です。今回入荷の『第三号』は昭和11(1936)年11月16日付、杉並区永福町の崔承喜舞踊研究所から発行されています。いまから3年前の2007年6月に、一度だけ小店に入荷した同誌『第一集』は昭和10年の発行で、発行所は確かまだ、師にあたる石井獏の研究所と同じ自由が丘に置かれていたような記憶があります。短期間での相次ぐ機関誌発行と、研究所の文字通りの独立とは、昭和9年に開かれた「崔承喜 第一回発表会」以降、いかに目覚ましい成果を上げていたかの証左ともいえるでしょう。当号巻末・三段組みで2頁にわたって記されている、1934年9月の「東京第一回発表会」から1936年11月までの「崔承喜出演日誌」を見ると、この間に北海道から沖縄まで国内津々浦々、ばかりか、韓国、中国や台湾など旧植民地での公演も含め、年を追うごとに飛躍的に公演回数が増えていることが一目で分かります。一例を挙げると1936年の4月は釜山公演に始まり平壌、大連等を経て奉天まで巡業、月内に帰国してさらに東北方面を巡業し、この月の公演日数だけで21日に上る…といった具合。日程と会場など一覧にまとめられたこの公演記録は資料として貴重。また、牛山充による「作品解説」は1934年以降に発表された20作品を取り上げて詳解しており、写真と付け合わせて見ると舞踊の動きや印象など全体像を掴むのによいヒントとなるはずです。石井獏はじめ、新居格、板垣直子(=板垣鷹穂夫人)、青野季吉、村山知義、柳宗悦、園池公功らによる書き下ろしと目されるそれぞれ比較的長文の批評の他、光吉夏弥によるこちらも書き下ろしと思われる長文の英文批評、短文ながら長谷川時雨、窪川稲子、戸坂潤、吉田謙吉、水守亀之助、平野零児らによる公演を見ての来信、第1回から第3回までの新作発表会に関して各種メディアに掲載された批評の転載(1934~35年、永田龍男、江口博、光吉他)、『文芸』誌発表の川端康成「舞姫崔承喜論」など、堀野正雄撮影分を含む舞台姿(衣裳、ポーズ)の写真を多数収めたグラビア誌でありながら、これらのテキストもまた見落とせないものばかりです。


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『伊東洋裁研究所規定』はB5・16Pの小冊子。上段右は洋裁道具をモチーフにデザインされた表紙 / その左は当冊子扉に置かれた伊東茂平の肖像写真 / 下段見開きは右が伊東洋裁研究所のあった虎ノ門・不二屋ビル、左がやはり同研究所のあった大阪・日産ビルの写真

当時の錚々たる知識人・文化人たちによるテキストに共通するのは、朝鮮古謡に題材をとった作品に対する評価の高さと、その方向で進むようにと口を揃えているところ。その口吻にはどこか、いまでいう“上から目線”といった印象が残ります。すでにお分かりの通り、この当時のモダニズムや“新感覚”をリードしたリベラリストたちを執筆陣に揃えながら、しかし彼らをもってしても、“帝国-植民地”という関係性は無意識の内に織り込まれていた、ということでしょうか。ご存知の通り今年2010年は日韓併合100年、そして来年2011年は崔承喜の生誕100年。戦前から戦後までその生涯を歴史に翻弄され続けた舞姫・崔承喜の研究は、まだまだ途上にあるとも聞きます。戦後65年、歴史の“抜け穴”はあちらこちらに散らばったまま、まだまだたくさん存在しているようです。
戦後のスタイルブックなどでもよくその名前を見かける、ということは戦後までモード界・洋裁界で少なからず活躍していたはず伊東茂平。例えばこの人なども、なかなか正体を明かしてくれない人物のひとりといってよいのではないかと思います。その伊東茂平が戦前に起こした洋裁学校の学校案内『伊東洋裁研究所規定』( 1941年12月発行 ) が次の新着品です。伊東茂平は1898年(明治31)年生まれ、慶応義塾大学出身。洋裁は独学ながら「伊東式」と呼ばれる独自の作図法を考案。昭和4年=31才で銀座に店を構え、戦後は洋裁教育に携わり、昭和42年に68才で死去。教え子には後に洋裁学校を起こした上田安子や伊藤すま子、桑沢デザイン研究所を創設した桑沢洋子らが居る … といったところまでがせいぜい分かる程度で、まとまった評伝なども見当たらないようです。今回の学校案内掲載の写真で姿を見せる茂平さんは、ダブルのスーツにネクタイの出し方も決まったダンディーな美男子。また、伊藤洋裁研究所が入居していた虎ノ門の不二屋ビル、大阪の日産ビルはともに立派な建物で実業家としての手腕を物語るばかりか、モードを生み出すに相応しいセンスで撮影されていて、ここでも茂平さんの美意識が伺えます。この当時、東京の虎ノ門と三田、そして横浜、大阪の梅田と、4校をいずれも一等地に構えていた伊東洋裁研究所について、コースの内容や授業時間、休日など規則、そして授業料など、ひと通りのことがこの一冊で分かります。当冊子発行の前年に日本は太平洋戦争に突入、年を追って洋装どころの話ではなくなっていくのは周知の通り。おそらくは、伊東洋裁研究所もこの後は閉鎖の運命が待っていたはずです。戦前、女性が自立して生きていくための数少ない職業である洋裁教育に寄与し、しかも立体裁断を意識して取り入れようとした(…どうやらそうらしいです)など、モード界に深く関わりながら、人物として顧みられる気配のない伊東茂平という人もまた - 崔承喜ほどのスケールではないにせよ - あちこちにちらばった歴史の抜け穴のひとつなんでしょうね。あ。そういえばカワクボさんもヨージさんも慶応大学出身。ケーオーとモードとの間にはふかぁーい関係が - あるんだろーか…???


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陸軍糧秣廠内の財団法人食糧協会設立「食糧学校」の学校案内関係資料。「調理の中に精神を活かせ」は、昭和16年5月東條英機が同校を視察した際の訓話を起こし、印刷したもの。

■さて、来週月曜日には五反田の市場の落札結果が判明、いつもの金曜日の市場も再開されます。もちろん店も、いつもの火・木・土曜日の各日12時~20時営業に戻ります。思い思いの夏休みを終えられましたら、みなさままた店にもお立ち寄り下さいませ。2010年の残り四分の一も引き続きよろしくお願いいたします。
8月15日直前ということで、最後におまけをひとつ。陸軍糧秣廠内の財団法人食糧協会を設立者とする「食糧学校」・昭和17(1942)年度の「学校要項」(B4ペラ両面)、「入学志願者心得」(B5横長ペラ片面)とともに入荷した東條英機の訓話「調理の中に精神を活かせ」((B5横長ペラ片面)より。『伊東洋裁研究所規定』発行の翌年には、洋裁もへったくれもなくなっていたことが、このペラ一枚で十分納得せられましょう。以下はその東條訓話の抜き書きです。 “私は、凡そ生物にとつて、地球上にある食物に不足は絶対にないと思ふのであります。然るに「もの」が足りない。食ふものが足りないと、不足を唱ふる事は、私には解せないところでありまして、そもそもさう云ふあらゆる地球上の動物が生きて行ける様に、天が作っておるのでありますから、それに対して、何んの彼のと不足を列べる事は、唯人間の智恵が足りないからであります。” “即ち 食糧が足りないと申す前に、合理的に科学的に考へ、さうしてさう云ふ方面を解決する努力があるならば、足りない筈はない様に天から与えられて居るのであります。” これが当時の軍事・政治トップが考えた真面目なロジックなワケで … へたな怪談よりコワイ気がしてきませんか?

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