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15/06/12 田中千代を通して見る戦後日本のファッション史 - 吉原治良、鴨居玲、阪神間からN.Y.そしてパリ

■今週月曜日に、と書きながら更新が遅れてしまいました。と云うのも、ここ数カ月懸案だった田中千代旧蔵資料全てに漸く目を通すことができたものの、あまりの内容の濃さから一体何をどう書けばよいものか、すっかり腰がひけてしまっていたというワケ。がしかし、店主ひとり座してただ待つばかりでは何も進まぬ小店であります。とりあえず、現在ある資料の全体像と、特筆すべき要素についてざっくりまとめてみることにしました。

資料は「ゆうぱっく」特大サイズの箱で5つ分、約60冊のファイルと印刷物とで構成され、そのほとんどが田中千代自身の目と体験を通してあつめられたものです。

最も古いファイルは1943(昭和18)年の『千代デザイン切抜』(戦中の服装に関する掲載記事のスクラップ)ですが、資料群として見た場合、『千代アメリカノート 1950-1951』と記された3冊に始まる1950年代日本国内で開催された各種ファッションショーの資料、②1960~1970年代パリコレを中心とした海外のショーに関する資料。この2つに大別されます。この内、特筆すべきは、1950年代の早い時期に国内で開催されたファッションショーに関連する印刷物各種が残されていることではないかと思います。以下はこの視点からピックアップした資料についての概略です。概略と云いながら、いつにもまして高い障壁。うう。読むのもタイヘン。

■1952年、ニューヨークのパワーズスクールからモデルを招聘し、春と秋の2回にわたり日本各地で開催されたファッションショーには、近年国際的に評価が高まる具体美術協会の創設者・吉原治良が舞台美術や演出ばかりか、印刷物のデザインにまで関わっています1952年4月、田中千代が演出、吉原が構成を担当した「田中千代グランドファッションショウ」については大阪と東京開催分のプログラムとポスターがそれぞれ1点ずつ、いずれも吉原の作品を使用。同年9月「産経国際大ファッションショウ」の東京と大阪開催分のプログラムそれぞれ1点、こちらも吉原の絵を表紙に使用し、扉には田中と並び吉原がメッセージを寄せています。
このショーは、その教養と美貌とセンスによってアメリカの流行の発信源とされたパワーズスクールのモデルたちを日本に招いて開かれたもので、産経新聞・大阪新聞及び大丸が主催。パワーズスクールが指定したと云う田中千代が出品全作のデザインを手掛けました。春に講和記念行事の一環として開催されると大きな話題となり、これを受けて秋にも開催。資料にはモデルの採寸表なども残されており、アメリカの大きな影響下でスタートした戦後日本ファッション史の重要なカギのひとつと云えそうです。
田中と吉原とによる協労はその後も続き、今回の資料には、吉原が演出・美術を担当した1953年「田中千代 三つのテーマによるファッションショウ」のプログラム(吉原の長文掲載有)、田中千代がトークショーに登壇、吉原が美術装置を担当した「神戸シルク祭 ファッションショー」のプログラムなども残されていました。後者の演出は宝塚歌劇団の高木史朗。田中と吉原との関係にとどまらない、より広範な阪神間モダニズムの戦後復興までをも想起させる面白い内容です。
 

戦後日本のファッション界が、その手本をアメリカからパリへと移す契機となったひとつが、クリスチャン・ディオールのショーの日本開催だったと聞きます。1953年、いささか複雑な経緯から、ほぼ同時期に3つの動きがあったことが、残されていた資料から分かりました。10月14日、新大阪ホテルで開催された「服飾界の巨匠 クリスチャン・ディオール氏のパタンによる フレンチ モード ショウ-上田安子帰朝第1回作品発表」は大丸とファッション・デザイナー上田安子とのコンビによる開催。プログラム、入場券、新聞広告が残っています。10月25日クラブ関西で開催された「カネボウ ディオール・サロン」は鐘紡と田中千代とがタッグを組んでの開催で、田中千代帰朝報告ハガキ(ディオールに関し言及)、プログラム、パンフレット、招待状が残されていました。
これらがディオールとのデザイン提携=型紙を買い日本で制作したものだったのに対し、パリから外国人モデル・美容師など12名を招き直輸入の新作100点をショー形式で発表したのが「クリスチャン・ディオールグループ作品発表会」で、11月から12月に日本各地で開催されました。文化服装学園とエール・フランスの提携により開催されたこのイベントについては、文書3種と新聞広告が残されており(帝国ホテルでの「一般のための作品発表会」チケット1,500円!)
、招聘委員には白州正子、高峰秀子、中原淳一、早川雪州、シャルロット・ペリアン(!) 等と並んで田中千代の名前もあって、何やら対立項も透けて見えてきそうです。


■1950年代、田中千代の活躍する場はファッションショーだけでも実にたくさんあり、紙幅がいくらあっても足りません。3点目の画像は、それぞれショーのプログラムとそのデザインを手掛けた人名を記したものですが、例えば右端、1950年「Fashion Parade’51」はテイナ・リーサ賞(国際ファッションデザイン・コンテスト)発表を兼ねた大掛かりな舞台で、ショー原案・主題歌作詞は安西冬衛、作曲服部良一、越路吹雪他出演という豪勢なもの。他にも書き出したい内容目白押しながら、到底ご紹介しきれず、ですが少しく言及させていただくとすると、1950年代に毎年開催されていた日本デザイナークラブNDC主催のファッションショー今竹七郎が装置・演出まで手掛けた大阪と、東京と名古屋とではそれぞれ異なる布陣だし、1953年「5大デザイナーによるファッション・ショウ」の大阪開催分は須田剋太が装置を担当(田中千代は酷評)。ポスター、プログラム、入場券などが残る1958年の「化繊による国際風俗ショウ」は何と鴨居玲が演出構成を手掛けていたりと、予想もしていなかったような名前が次々と出てきます。1952年「中原淳一帰朝第一回ファッションショー」のプログラムのように、田中千代が直接関わっていないものもありますが、こうしたショーのほぼ全てに、田中千代が関わっているということ、つまり、田中千代という人の尽きることない能力と圧倒的なバイタリティ、そしてそれを必要とした時代の勢いというものに、改めて感じ入るばかり。そしてまた、ファッションというものが、アートやデザイン、或いは舞台芸術などに、いかに近しく接続されていたことか! 今回のこの資料、もはや消費の側に身を任せるようになってしまったファッションが、いまだ創造の領域の側に重きを置いていた時代の痕跡として見ることも可能ではないかと、そんなことを思いました。

ファイルには、田中千代自身によるスケッチやメモがまだまだ山のように残されています。原稿なども残るパリコレのファイル、パワーズモデル招聘に先駆ける1951年のアメリカノート、ディオールの年ともいえる1953年の渡航先からの手紙・原稿類、1958年ディオールやジバンシーなどと並び、日本人デザイナーとしてはただ一人参加した「Second International Fashion Revue」の各国マスコミ記事1963年ヨーロッパでの田中千代ファッションショー1967年ニューヨークでの田中千代ファッションショーなど、詳細にわたる解読が待たれるものがまだまだこれでもかという程たくさん残されています。読みこんでものにしてやろうじゃないかという方が現れるまでは、とりあえず、小店がお預かりする所存であります。 問題はただひとつ。どうする!? 保管場所!!!

田中千代旧蔵資料については、明日、これで本当の最後の一点と云われた写真資料ファイル20冊が入荷。こちらについての詳細はこれからとなります。この他、「昭和12年8月満洲旅行」等集印帖3冊と同時期の「旅行記念」貼込帖2冊、大正14(1925)年8月の1ヶ月をかけ挙行された『中華民国視察教員団日記』(孔版・非売品/日記等65P、会計報告31P  これは面白いので読んでから店へ。または次回ご紹介?) 、戦前宴席メニュー4点他紙モノが小1箱、上に貼られた図解部分を捲ると下から隠れていた構造図解が現れる『堤防橋梁組立之図』昭和40年代の『映画入場券発注見本帖』(現物貼込多)、何故か切手「月に雁」2シートと「見返り美人」1シート (それぞれ完品)、そしてお待たせしました、四方が焼けたただの紙と感圧紙など変わり種の紙、などが明日以降来週にかけて順次店に入ります。ああ。明日からがまた大変だわい。
余りに長くなったので、今週はひとつだけ。ナカタニとか云う某閣僚の取り消された発言に憤慨された方はこちらまで → http://anti-security-related-bill.jp/

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