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21/03/20 メディア・アートのスタート地点から 9EveningsとE.A.T.

■東京都は感染者数が下げ止まりしたなかで緊急事態宣言解除を迎えることになりました。感染規模の下げ止まりはもとより、次々に現れる変異株、一向に進まないワクチン接種など、まだまだ予断を許さない状況が続きます。
21日以降も小店は緊急事態宣言下と同様の体制・対応を続けながら営業いたします。
お客様には引き続き入店時の手指の消毒とマスクの着用についてご協力をお願いいたします。マスクをお持ちでない方は店頭でお申し出で下さい。
ご不便をおかけいたしますが、ご協力を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

またまた「ぜんぜん知らなかった。」が出てきてしまいました。
「E.A.T.」と「9Evenings」。ご存知でしたか? 恥ずかしながら小店店主、全然知りませんでした。ぜーんぜん知らないまま『クロス・トーク/インターメディア』など売ってたのかと思うと我ながら、底の浅さに血の気がひきます。
猛省しかながら先を急ぎます。
最初に「おや?」と思ったのは、『9Evenings:Theatre and engineering』のパンフレット兼プログラムの大判の冊子と別刷りのプログラム1枚の1組を目にしてのことでした。1966年の10月、9夜にわたって開催されたイヴェントの内容とは如何にとページを捲れば、ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーグ、デビッド・チューダ(テュードア)、イボンヌ・レイナーといった名前が並んでいるのに気付きました。慌てて「9evenings」で検索すると冊子のタイトルそのまんま、wikiの長文解説が出てくるではありませんか。云われてみれば、この表紙だけで充分怪しい。以下、くわしいことについては落札後に分かってきたこと(のまだ途上)です。「9Evenings: and engineering」はラウシェンバーグとベル研究所のエンジニア、ビリー・クルーバー(クリューバ)の構想のもと、10人のアーティストと30人のエンジニアによって構成された前衛的なダンス、電子音楽、ビデオ作品など、多彩な作品が発表されたもので、1960年代で最も影響力があったイヴェントと云われています。当初、1966年のストックホルム芸術技術フェスティバルでの発表を予定していましたが交渉が不調に終わったため、舞台をニューヨークの第69連隊武器庫に移して開催されたと云います。このイヴェントの何がすごかったかと云うと、これが実にたくさんあるのですが、例えば …… アーティスト、エンジニア、科学者の間の最初の大規模なコラボレーションだった/パフォーマンス・アートに用いられるようになるさまざまな技術を「最初」に生み出す機会となった/ベル研究所のクルーバーと彼の同僚が150,000ドルを提供/30人の技術者が推定で延べ8,500時間を費やした …… などなど。初めて用いられた技術には、ビデオ・プロジェクションや暗闇での動きをとらえるinfrared television camera、Closed-circuit television、fiber-optics cameraがあり、音響ではボディサウンドをラウドスピーカーに送るとか、doroppler sonar deviceやportable wireless FM transmitterなどがこの場で登場したのだとか。

確かにこれは早くも21世紀を先取りするような陣容による尖端であり前衛だったことに間違いなさそう。"ものすごく すごい"としか云いようがありません。
20世紀初頭、アメリカの美術界を、敷いては世界の美術界を新たなものへと更新したのが「アーモリー・ショー」だったことを考えると、「9evenings」でも武器庫が会場になったことは何か暗示的・象徴的なことのようにも思えます。
ちなみにジョン・ケージはパフォーマーにテュードアらを加えた「ヴァリエーションⅦ」を、ラウシェンバーグはフランク・ステラをキャストに迎えた「オープン・スコア」を発表しています。しかしこの9夜がすごいところは9夜に留まらなかったことにもあり、次の「E.A.T.」へと展開されていきます。…… "E. A. T. の活動はエンジニアのクルーバーが活動の中心を担った点が特徴である。クルーバーがこの運動に深く関わったのはテクノロジー礼賛の傾向に対する強い反発のためで、そのためE. A. T. は、アーティスト主導によってテクノロジーを「道具」として活用する従来の「アート・アンド・テクノロジー」とは一線を画し、グループ内ではアーティスト主導ともエンジニア主導とも呼べない特異な集団制作体制が取られた。パフォーマンスやコラボレーションの画期的な表現形態が生まれたのも、独自の制作体制と無縁ではない。"

■「9evenings」のパンフと同型のタブロイド版冊子『E.A.T. CLIPPINGS』は定期刊行誌『E.T.V. Proceedings』の第7号として発行された特別号の第一巻第一号。米欧中心に南米から日本まで、1960年から1969年までの間に世界各地で報道・批評・レポートされた記事のクリッピングからなる雑誌。日本のメディァでは『みずゑ』と『美術手帖』から記事がピックアップされています。「E.A.V」はExperiments in Art and Technology(芸術と科学技術の実験)の略でアートとテクノロジーの融合を目指したアメリカの前衛芸術家組織。「9evenings」を制作している過程で生まれたグループであり、1966年に設立、68年にはクルーバーが代表となり、「現代アーティストなら誰でも利用できる材料、技術、工学」を実現するために、全米に28のE.A.T.支部が設立されたと云います。「日本大百科全書」を見ると、E.A.T.については、マサチューセッツ工科大学先端視覚研究センターとの関係、大阪万博(ペプシ館!)への関与から、アートと技術の関係まで、例えば下記のような興味深い記述が並んでいます。何だかとても今日的なお話しでもあるような。すでに再評価が始まっているらしいE.T.A.にご興味をお持ちになったら下記のサイトをお勧めします。動画付きも。 

https://kotobank.jp/word/E.A.T.-1506959
https://artelectronicmedia.com/en/artwork/9-evenings-theatre-engineering/
https://en.wikipedia.org/wiki/9_Evenings:_Theatre_and_Engineering

■今週の斜め読みから。
少し前の掲出ですが、この人の書くものはいつも面白くて かつ真っ当。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100003682130924
 

21/03/13 1975-1976 タデウシュ・カントルとナム・ジュン・パイクのポスター

■「75年の初演を僕は見ているんですけど、色々とショッキングな、感動というか、ほとんどの人が訳の分からないものを見たという感じだったと思います。今でこそ僕は冷静に、これはこうで、旧約聖書で、とか言っていますけれど、ほとんど分別不可能な音と、しかもこのクシシュトフォリという地下室では埃のようなものが充満していました。カントルはわざと古い、本当に着古した衣服とか古いものを使うので、息苦しいくらいのところでした。そんな状況で、何が何だかよくわからない状態で見ているんです」

-京都市立芸術大学特別授業「『私と絵画と演劇の三角関係』あるいはタデウシュ・カントル 入門」(2014年6月30日) より
講師:関口時正(翻訳家・東京外国語大学名誉教授)
司会:加須屋明子(京都市立芸術大学美術学部准教授)
https://gallery.kcua.ac.jp/uploads//2020/06/2e9843fc622029eaccfea1d7ec61892c.pdf

20世紀を代表する舞台芸術作品のひとつであり、1976年には『ニューズウィーク』が「世界で最高の演劇」と評したタデウシュ・カントル「死の教室」のポスターが入荷しました。
「THE DEAD CLASS」と英文でタイトルが記され、図版の下にフランス語風に表記された「cricot2」(=クリコ2)はカントルが1955年に結成した劇団名、さらにその下に「FIRST NIGHT: 15 NOVEMBER 1975 KRAKOW - POLAND」とあり、クラクフでの「死の教室」初演を告知するポスターであることが分かります。
ポーランドの専門サイト「演劇百科」では、この作品に関するたいへん詳しい解説を読むことができるのですが、そちらに掲示されているポスターは図版と言語(=ポーランド語)が異なる別ヴァージョン。英文ポスターはより珍しい可能性もありそうです。
当初、アイロンをかけてシワや折れを直し、ビン痕も目立たないように少し手を入れる気でいたのですが、眺めているうちに、このポスターの価値は、クラクフの街か劇場のどこかに実際に貼り出されていたことを示す痕跡にこそあるように思えてきて、あえて手を入れないことにしました。従って、ここにご紹介する状態で販売するものとお考え下さい。 

この優れた舞台作品の存在を知ったのはいまから35年ほど前、P社同期の友人の慧眼と熱弁を通してのことでした。小店店主がその重要性について気が付くことになるのはもっとずっとあと、古本屋になってだいぶ経ってからのことで、まさか日本でその作品の初演のポスターを手にする日が来るとは、何より自分が古本屋になっていようなどとは、いずれも露ほども想像していなかった頃のお話しです。
カントルの作品にはバウハウスや構成主義など、戦前のアヴァンギャルドの影響も指摘されます。作品についてはいまや簡単に動画で観ることのできる時代になりました。自宅に居ながらいつでも好きな時に鑑賞できる! 35年というのはつまり、それくらい驚天動地のことだって起こる時間なのでした。

今週はポスターが続きます。1976年から77年にかけてケルン・アート・アソシエーションで開催されたナム・ジュン・パイク(白南準)のビデオ・インスタレーションの展示を知らせるポスター
ケルン・アート・アソシエーションは、現代アートを扱うスペースとして、ヨーロッパで最も有名な会場のひとつ (なのだそうです。知らなかった…)。
いたずら書きのような吹き出しのなかには、「for 宮 san」と贈り先の方のお名前が。この「宮さん」というのがミソで、お相手はパイクのパートナー・久保田成子とともにマルセル・デュシャンとジョン・ケージによるチェス対戦をおさめた私家版『REUNION』を作った宮澤壮佳さんのこと。ナム・ジュン・パイクの署名もあり。また、ポスターが宮さんに贈られた経緯の書かれたハガキ付きです。
モノクロという手法も、時代もほぼ同じ「死の教室」とパイクのポスターを並べてみた時に感じる感覚的なこのひらきがどこから来るのか。小店店主のおつむでは、あてずっぽうのヨタ話程度しか浮かんでまいりませんので控えます。
左上の画像もナム・ジュン・パイクで同時に「宮さん」に贈られたもの。その辺りの経緯もハガキに書かれています。こちらのポスターも署名入り。バラ売りの予定です。

■あの日から10年が経ちました。
日本は結局何も変わらなかった。そればかりか、被災地をいいように利用する政治だけがはびこっている気がしてなりません。
天災と云う名の人災もまた、一向に改まらいままです。。
いまだ日常を取り戻せない方たち、癒やしようのない傷を抱えた方たちのことを思いながら、あの日のことを、あの日からのことを、まだまだ考え続けなければいけないのだと思っています。
 

 

21/03/06 1920年代・70年代 芸術の前衛より - 『エポック』と『精神生理学研究所』

■初めて見つけた時の市場ではどのあたりに並べられていたか、誰が落札するのかを告げる発声が聞こえるまでどんなにドキドキしたことか、いまも昨日のことのように鮮明に覚えているのですが、あれは一体いつのことか…とHPで確認すると2008年8月2日付けの投稿が出てきました。
もう13年近く前のお話し。以来今日まで、市場で私が気付いたのは一度だけでその時は落札できず、相当にくやしい思いをしました。この時の悔しさも、誰に、いくらで負けたかも、昨日のことのように覚えています。
捲土重来。3度目の今回はパドルを使った振り市に出品されたのを幸いに、とにかく相手が降りるまでひかないと決めました。覚悟していた腹積もりにはわずかに届かず落札できたのはラッキーだったと思うことにしています。
かくして、『精神生理学研究所』(1970年 東京精神生理学研究所発行)が再入荷となりました。
さて、「精神生理学研究所」とは何ぞや、ということになるわけですが、扉にあたるリーフの記載を転記しておくと…
私達は 各地の参加研究所がそれぞれ個々の取り得る位置で 規定された時空間において同時多発に行為あるいは無行為をもって参加する不可視的美術館 精神生理学研究所を設立しました。/この研究所は 直接的なかかわりを拒否した個人の行為あるいは無行為の記録を 集合 離散させるものです。
つまり、参加した美術家が指定された日時にそれぞれ自分の居る場所で何をしたか/しなかったか で成立するみえない美術館が精神生理学研究所であり、そのようにして一瞬立ち現れた美術館を記録したのがこのリーフ集だということになるでしょうか。集合と離散というのは、各人の行為・無行為が紙の上に記録され、一度は集合してひとまとまりの印刷物となるものの、すぐに作品集として再び各地各所へと散っていく、この記録=作品集のありようを表わす言葉と読むことができます。
いまこうしてみると、いかにデジタル的なありようか (みえない美術館!)、あるいはコロナの時代的な試みであるか (直接的なかかわりを拒否!)と驚くばかりです。
前衛の面白さは、無意識下に時代を先取りしてしまう・先取りしているように読み取れる ところにあるのだと思うのですが - そして迂闊にも、最初に扱った2008年当時は単なるイロモノとしかみていなかったのですが - A4片面刷のリーフ77枚から成る『精神生理学研究所』は、堂々たる前衛に位置付けられるものだと今回すっかり目がさめました。松沢宥も東野芳明も、前田常作、堀川紀夫も、居並ぶ参加名は決してダテではありません。こうなると糸井貫二の太陽の塔の下全裸疾走も堂々たる前衛です。
2008年当時との違いといえば、あの当時はほとんど手掛かりのなかった電子空間に、いまや「精神生理学研究所」を研究テーマとする論文がいくつか見つかって、同研究所ついてはそちらをご覧いだくのが手っ取り早いかと思います。
例えばこちら。
https://www.iamas.ac.jp/iamasbooks/wp-content/uploads/2019/03/Journal_of_IAMAS_Vol.9.pdf 

ついでに2008年最初に扱った時の小店HPのページはこちら。
http://www.nichigetu-do.com/navi/info/detail.php?id=200
それにしても、ですよ。どのプレートもカッコイイというのに。たまたま選んだはずのプレートが2008年と同じだったとは ……
好みばかりはそう簡単に変わらないようで。
成長していないだけか。

こちらは大正期の堂々たる前衛。「日本画家」である玉村善之助=玉村方久斗を中心とする前衛芸術誌『エポック』の創刊号(大正11=1922年 エポツク社発行)が入荷しました。日本画界隈にも前衛あり、というのがいかにも大正時代らしい。
未来派風の表紙画は玉村その人の手になるもので、雑誌としてはA4とB5のちょうど中くらいのサイズですが、表紙から裏表紙に続く見開きでみるとかなりの迫力。この当時、玉村は版画の制作にも精力的に取り組んでいたと云いますので、この表紙にも版画の技法 - おそらくリトグラフ - がとられたものと見られます。
創刊号に寄せた玉村の原稿は「破壊芸術として」。未来派も立体派も表現主義もダダイズムも、新しい芸術を打ち立てようとしているように見えて実は破壊を志向するか、または結果として破壊に向けて突進しているとするもので、論調もまた前のめり。
前衛芸術誌としては美術にとどまらず、巻頭は「英吉利文学研究」だし、巻末はウイリアム・モリスの「世に知られざる教会の物語」の翻訳、途中に「印象派芸術と表現派芸術」を訳文で紹介、多彩な絵画作品図版を引用した「独逸通信(和田氏から)」は山内神斧の寄稿で、「アンナ・パブロア来る」や「海外消息」など短信にも目配りが効いています。
画像にとった図版は無題ながらロシア革命当時の影響色濃い木版画に「芸術革命」の文字まで添えた象徴的な見開き。これもまた玉村の作かと推測しますが、記名も署名もなく断定はできません。
玉村は当誌のあと、やはり前衛芸術誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』の創刊に関わっており、この『GGPG』がまたバカ高い雑誌なのですが、『エポック』はいまのところ格段にお値段控えめ。戦前前衛芸術関係一次資料は年々出現頻度が低くなる一方で、この傾向にはここ数年でますます顕著に。『エポック』あたりもいまのうちかと。

■今週の斜め読みから。
ニッポンのコロナウイルス対策がどうにもこうにも後手後手でからしき半端なのは全て「オリンピックありき」によるものではないかと勘繰りたくなる点多々あり、「正気」になれば当然この論調にいきつくのではないかと思う次第です。https://courrier.jp/news/archives/235687/?fbclid=IwAR1yp6gcSlZ7R-ZYLXcNbf0JEgREi-JRiHhWOuOAMGNKh4mzFDG-SFlwEDA


 

 

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